哲学のゆくえ ブログ
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タイトル:恭賀新年
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更新もせずに時間だけが過ぎ、2010年になってしまいました。
このブログもこの先どうなることか、2011年を迎えられるでしょうか。
確かニーチェについて書こうとおもったのですが、記憶がとんでおります。
世界観から意味を求めるのでなく(宗教)、存在から意味を求めるのでもなく(形而上学・存在論)、環境から意味を獲得する(哲学的処世術)感じを想定して、お話を進めていきたいなと思います。どうも、普遍性を重宝する哲学を求める方は、現状の科学、例えば能神経科学の御用哲学などになっているように感じます。特に「心の哲学」。その背後に倫理的関心があるのはわかるんですけどね。
私の考える哲学の役割とは、人間がまだ答えを出せない問題群を中心のないリゾームと考え、そこに、ある仮の中心を匂わす、つまり人を魅惑することがその仕事だろうと考えています。(もちろん真・偽の裁判が行われる世界に取り囲まれながら)
科学はこの中心のないリゾームを外から、ある仮の中心を想定した個人または集団によって徐々に狭めていこうとする方法ではないでしょうか。しかし、リゾーム内から科学を引き入れる御用哲学というのは、なんだかアプローチが違うように思います。
先ほど「匂わす」と感性的な表現しましたが、実際そんな感じではないかと思います。
哲学と思想に関してですが、もし「ある仮の中心を匂わす」ことを思想とし、外からリゾームを徐々に狭め、知識を獲得していくことを科学とすれば、哲学とはこの両方を成していこうとする行為か、またはこの場合の思想と同義と考えてもいいんじゃないかと思うのですがどうでしょうか。
哲学は、論証により原理というものでもって匂わしたり、関心のある事柄から共感するようにして匂ったりするわけではないでしょうか。中には臭いものもあるでしょう(笑)。
思想の自由なきところに哲学なし。田中美知太郎
「生の哲学」から「プラグマティズム」の流れがすきな管理人の新年一回目のつぶやきでした。
今度、ニーチェからいろいろと辿ってローティの啓発的哲学あたりまでを書いてみたいと思います。
2010.01.05 | つぶやき | Comment:2 | TrackBack:0
タイトル:哲学の知恵と幻想
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前回は哲学のことといっても、単なる信念・態度のような事柄しか扱いませんでしたので、今回は別の視点から、いろいろな意見を見てみようと思います。
ジャン・ピアジェ(Jean Piaget 1896-1980) 20世紀に活躍した心理学者。
彼の著作の中に、Sagesse et illusions de la philosophie『哲学の知恵と幻想』というものがあります。メジャーではありませんが、その中に「私はなぜ哲学に進まなかったか」という章があり、ピアジェが心理学に進む自伝が書かれています。
大変興味深いので紹介します。
ピアジェという人は、哲学に心惹かれながらも、しかし哲学者の道を退けた人です。
哲学のいう真理と科学のいう真理には大きな乖離があると指摘し、実験的検証を経ずに、単に直観と反省のみで真理に到達できるはずがないと考えていました。特に、真理の探究に心惹かれていた結果、また当時の哲学のありさまにより、科学の方法を選んだといえるかもしれません。(そのため実証主義のレッテルを貼られたりしたそうです)
そんなことから、ピアジェは哲学の思弁的反省という方法をまっさきに指摘します。
「思弁的反省は、主観的な即興と躍動のために、証明に背を向ける危険がある。屋内で一人で仕事をするときでさえも、他人と密着した関係のなかでのみ収穫を得ることができるにすぎないのであって、その真理が、事実においても演繹の結果においても無数の相手の検証によってのみ獲得される科学的な所産におけるように、共同研究の方法を一貫して採用しなければならない。さもなければ、おのれを自由だと思い込んでいる自我が、無意識的に、社会集団からの影響や圧力をうけてしまう。さすれば、これは妥当な方法とはいえないだろう。なぜなら、社会中心性は、自己中心性と同様、合理的共同作業とは正反対だからである。」
ちょうど同じ時代に生きていた、マックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer 1895-1973)とう社会学者・哲学者がおります。(ホルクハイマーの方が一つ年上ですね)
彼の著書の中には「哲学の社会的機能」というものがあります。
※TRADITIONELLE UND KRITISCHE THEORIE UND ANDERE AUFSATZE.『伝統的理論と批判的理論 他エッセイ』のなかの、幾つかを抜粋したStudies in Philosophy and Social Science.『哲学と社会学の研究』の英訳をさらに邦訳したものが『哲学の社会的機能』として出版されたのかな?と思います。
邦訳『哲学の社会的機能』では、ホルクハイマーは哲学を次のように見ています。
「哲学の社会的機能は、現実を支配しているものの批判にある。この批判はあたかも哲学者が変わり者であるかのように、個々の観察や条件の表面的欠陥を暴露する作業を意味してはいない。また哲学者があれこれ孤立的条件に不平をいい、治療法を示唆する仕事をするのでもない。哲学的批判の主たる目的は、社会の既成組織がその成員に浸透させる、あれこれの観念や活動にわれを忘れることから人々を救出する仕事である。」
要約すれば、哲学の社会的機能とは、社会の既成組織全般に目を光らせて、その成員に呼びかけ一人ひとりに判断させる教育をお施し救出することでしょうか。
ピアジェとホルクハイマーの意見を比較すると、互いに補完的な感じがします。学的真理を求めるミクロなタイプと、社会的関係に重点を置くマクロなタイプと見てもいいかもしれません。
緻密なミクロと粗雑なマクロというイメージがありますが、哲学という領域を考察してみると、総合知を目指した哲学はアプローチを変え、人間の能力や機能の仕組みや限界を示すことや、その人間が織り成す社会の機能や仕組みを究明することの結果からくる期待値を判断すること。またはその判断を判断することに仕事が変わってきたといえるかもしれません。総合から統合へ。
人間の諸能力や機能、仕組みや限界は、すでに脳・認知科学や心理学が展開しています。論理の分野も独立した形になっています。一方、人々が織り成す社会の機能や仕組みその限界は、とりあえずは社会学がそれを引き受けています。(社会学は統計学を駆使するも、最後の判断は実証不可の場合がほとんどで、科学といえるかどうかわかりませんが)
この点を考えると、哲学が秘めるものは、わすか総合知を目指そうとする態度と、それらの知識の価値判断にあるといえるかもしれません。
しかし、ホルクハイマーのいうような哲学の社会的機能とは何なのか?現実を支配しているものの批判と人類の救出とは何なのか?これだけ見ますと、「哲学」の機能はなんだか相当大きいように思えます。
ピエジェは、「哲学の本質的機能は、諸価値の調整である」と言う。
「哲学は、人生のもろもろの価値を理性に基づいて調整することにしか存在理由はなく、知恵には到達し得ても、真理には到達し得ない。科学を超えた認識なるものは哲学の幻想である。」
さらにこう言っています。
「天性の形而上学者は、自分に関して、知識の規範と信仰の規範とを調和させるに至ったとき、当然、学派を作ろうとするか、あるいは、少なくとも彼の所信を普及させようとする。このとき、この活動が単に理性的な角度からだけでなく、道徳的に知的誠実性という観点から議論の余地ができはじめる点こそ、科学的研究がはじまる点であるように思われる。」
ピアジェから見れば、学的に哲学がいかに真理を探究することを謳っていようと、真理たることを語るためには、合理的共同作業の科学の方法を借りてくるほかないと。
しかし、このような境界線を探ろうとする試みは、また哲学からの批判も呼びます。
というのは、私たちが持つ全体性を希求する態度や、その探求全般をも哲学という「営み」として呼ぶ伝統があったからです。その結果は形而上学と呼ばれ多々批判されますが、区切られた一つの学として収まらない人間の活動の一つとしての哲学もやはりあるといわなければならないでしょう。
日本で上のピアジェの意見を聞けば、学問の始まりをあまり自覚して考えていない私たちにしてみれば、哲学を単なる一諸学問とし、そしてそれが、たいして有効な学問ではないことをピアジェは言っているのだなと、単純に思ってしまうのではないかと思います。
日本では「学」と「哲学」の違いを言葉から意識することはほぼないといえましょう。しかし、「哲」ってなんのこと?といった形で、他の「○○学」とは違ったニュアンスをかもしだす味があるのかもしれません。
当のピアジェも「科学と哲学」においてある意味補足しています。
「哲学とは、実在の総体に対して、理性に基づいたある立場をとることである。<理性に基づいた>というように、哲学は、純粋に実践的あるいは感情的立場、または、熟慮反省によって洗練されていない単に容認されただけの信念と対立する。また、<実在の総体>という概念は、三つの成分を含んでいる。第一に、この概念は、もっぱら知識のみならず、人間の高等な諸活動全体にもかかわるのである。・・・」
以上、哲学についてちょっとやそっとで結論をだすことには無理があるのでしませんが、参考になればと思いましたので書き残しておきます。
2009.10.29 | つぶやき | Comment:0 | TrackBack:0
タイトル:哲学のゆくえ
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デカルトは、哲学全体を一本の樹木として例えた。
「その根は形而上学であり、その幹は自然学。そこから出ている枝は諸学問であり特に医学と工学(機械的技術)。そしてその果実は道徳であると」(『哲学原理』参照)
ホッブスは、「哲学」というときほぼ「学問」という意味でも用いており、哲学を「既知の原因あるいは知りたいという思い・エロス[産出力]により、正しい推論を通じで獲得される結果あるいは現象の知識。または、既知の結果から正しい推論を通じて獲得される知識」と、いったりしている。(『物体論』参照)
ヒュームは、「哲学的探求に用いて成功を希望できる唯一の方策は、諸学の首都たる人間本性そのものに端的に進軍することである」といっている。(『人性論』参照)
カントは、「すべての理性の学のうちで学習されうるのは数学だけであって、哲学(それが歴史的なものでないかぎり)はけっして学習されず、理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されるにすぎあない」といっている。(『純粋理性批判』超越論的方法論第三篇 参照)
ヘーゲル死後
フォイエルバッハは、「新しい哲学は人間を、人間の土台としての自然学をふくめて、哲学の唯一、普遍、最高の対象とする」としい人間学を押し出す(『将来の哲学の根本問題』参照)
マルクスは今までの哲学を、ただいろいろに解釈しただけの思弁哲学であるといっている。
「哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきただけだ・・・」(『ドイツ・イデオロギー』フォイエルバッハに関するテーゼ参照)
ニーチェ、ハイデガーは、科学と敵対的に展開し、「将来の哲学者は芸術的文化の高等法院にならねばならぬ」とか、「存在を捉えるには詩人的思惟、回想的思惟によらねらばらぬ」とかいっている。(『断片』『形而上学とは何か』参照)
ラッセルは、このような過程から「神学と科学との間には、この両方から攻撃にさらされている境界地(no man’s land)がある。この境界地が哲学である」といっている。(『西洋哲学史』参照)
田中美知太郎は、「ラッセルの哲学史は、間接的な哲学否定の歴史にすぎず・・・哲学が否定的に取扱われることになってしまったのである。・・・ラッセルのいう「大きな力を及ぼす」哲学の積極的内容は、これを神学と科学との間の「no man’s land」とするだけの規定で、果たして十分に把握できるものかどうか大いに疑問であると言わねばならない。とにかく哲学の歴史は、単に神学を悪玉とし、科学を善玉とするような、単純至極の闘争劇のうちに収拾されてしまうものではないことは、ラッセル哲学史の一面性が、なによりもはっきりとこれを示している」(『哲学への案内』参照)
田中美知太郎は、「哲学において、私たちが直接に知ることのできるのは、歴史のうちに与えられている哲学でありますが、しかしこのことは、歴史のうちに与えられている哲学が、哲学のすべてであるということを意味するものではありません。歴史のうちに解消し、歴史を絶対者とする考え方は、実際には、その歴史を更に絶対化された今日という日、もしくは絶対化された明日という日に解消しようとするものであって、それはかえって歴史を否定し、哲学を否定する結果になることは既に申したとおりです。歴史の意味は、歴史だけでは解けません。哲学史に意味を与えるものは、哲学史のうちに解消されてしまうことのない、哲学そのもの、あるいは永遠の哲学と呼ばれたものでなければなりません。」(『哲学のために』参照)
フィヒテは、「どういう哲学をひとが選ぶかは、そのひとがどういう人間であるかにかかっている。・・・哲学体系は死んだ家具のようなものではなく、それをも一つの魂によって生かされている」といっているのを思い出しました。(『知識学への第一序論』参照)
哲学がよくわからない。
哲学することで何を求めればよいのか?
それは哲学史にあるのか? 否。自分の過程にあるのか?
リチャード・ローティは、「すこし大雑把だが、私は哲学者というものを、根本的に公的な目的を達成するような仕事をするミルやデューイやロールズのような哲学者と、根本的に私的目的の達成のための仕事をする哲学者に分けている」といったりしている。(『脱構築とプラグマティズム』参照)
私の個人的な憶測では、ローティのいうような根本的に私的目的の達成のための仕事をする哲学者はどうも反哲学を標榜しているように見受けられます。
個人的に哲学というものに対して、傾倒してやまない一つの考え方がある。
それが「技術の技術としての哲学」by田中美知太郎
世界観、形而上学からスタートする体系重視ではない、だれもがぶつかるであろう、些細でもあり根本的な問題から始まる問いとしての哲学。
最後にその部分を引用して終わります。
「哲学は科学であるよりも、むしろ技術である。あるいは技術の技術であるといった方が、もっと適切かもしれない。今日の技術の概念は、きわめて狭小であって、工業生産の工程などに局限されて考えられる傾向が多いけれども、これはもっとひろく使用や処理、獲得や管理、教育などについても考えられなければならない。そしてわれわれは技術の手段的な面に注意をうばわれて、目的は何であっても、それのために最も効率のいい手段を考えるのが技術であるという風に見たりするけれども、単なる科学的知識から技術を区別するのは、実にこの「目的」の明確さにあるということを忘れてはならない。技術の代表的産物であるとも見られる機械は、いつも一定の目的を果たすために、あらゆる無駄を省き効率的に作られているのであって、漫然と何の目的もなしに部品が集められ、これに運動が与えられたとしても、それは機械とは呼ばれないのである。しかしわれわれは目的のこの自明性のために、かえってそれが盲点となって「機械的」という言葉を、無目的ということの代名詞に使ったりするのである。しかし今われわれは、目的の一義的な支配をもって、技術の決定的な特質と見なければならない。そしてこのような目的は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のはじめに示しているように、上下の関連を通じて目的の体系に組織されるものなのであって、それはギリシャ語で考えれば、善の支配ということであり、今日の言葉で言えば、価値の世界が構成されるということであろう。哲学において求められている全体性は、抽象的な普遍でもなければ、単なる自然でもなく、むしろわれわれ自身の喜びともなれば、また悲しみともなるような、価値を帯びた全存在なのであって、われわれが世界とか、人生とかいう言葉で指向しているのが、それであるとも考えられる」(『哲学への案内』参照)
目的をもって人は生まれてこない。しかし、自我とよばれるようなものが成長するにしたがって、おのずと目的を意識せざるをえない運命に人はおかれているのかもしれません。
そしてまた、その意義の欠落はおのずと人を没落させてしまうのかもしれない。
現在、またこれからもずっと、この点にそっぽを向かせるように仕立てることが最善であるのかどうかもわからない。
哲学はこの点で一体何ができるのか。
2009.10.12 | つぶやき | Comment:0 | TrackBack:3
タイトル:主体性は無いか。
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主体性という言葉は今では古い言葉なのかもしれません。日本では昔 1960年代?サルトルが流行っていたようですが、そこで主体性というキーワードがよく使われていたようです。梅本克己の戦後主体性論争なんていうのもあったりします。しかし、内容はサルトルの「実存主義哲学とマルクス主義世界観」との関係の内で行われるものであって、構造主義に批判されると主体性という言葉もろとも姿を消してしまった感があります。
構造主義により「主体の死」、「人間の終焉」が叫ばれ、コギト(かんがえる私)が疑われはじめる。マルクス主義の言う反抗必然性とサルトルの言う対自の関係も、いろんな暴力的な事件の結果から、結局、マルクス主義の捉え直しを考えざるをえなくなる。
主体性はまず主体が確立されていなければならない概念でしょうか。今では認識主体は不確かなものとなっているといっていいと思います。他者とか力とか欲望とかリゾームの内で活動する何かといってもいいでしょう。ですが、実存やアンガージエ(参加)としての主体性ではなくなったけれども、規定されないポテンシャルとしてはまだあるのではと思えます。
先日、アクリル樹脂さんからコメントいただいたように、「対話」(環境)を通じた自己相対化の連続の先に、完全なるリゾームではなく、文化のカタチにある程度模られたリゾーム内で活動する「まともな人」が出来るのかもしれません。ただ、私の意見を述べますと、人はリゾームにはじまり形而上学を憬れると思えるんです。プラグマティックに考えれば、意義とか誇りとか文化・伝統に対する価値や職人気質とか呼ぶようなものによって社会と接触することになっていくでしょうが、そうではない場合が二つあるのでは。
対話もなく空白状態であるならば、まさに何をして良いのかわからない状態に陥る。戦後から現代までの教育が空白状態で人材を送り出すのは、後で企業がそこを埋める役割を持っていたからでしょうか。または変なセクトを作られちゃ困るからでしょうか。しかし、今度は即戦力を求めるようになるにしたがって、空白の穴埋めをすっぽかされたか、もうだいぶ前からやめてしまったんじゃないかな。立花隆さんじゃないけど、アメリカの大学では4年間リベラル・アーツしかやらないで、専門教育は大学とは別に、グラディエイト・スクール、ロー・スクール、メディカル・スクール等、職業専門学校という大学院にあたるようなところで行われます。日本の場合はそれがない。空白状態で専門教育をおこなっているようなもので、これが何に役立ち、何が出来、どんな意義があるのか、それが正しいものであるのか等には目もくれないで学んでいる。それはたぶん学習とは言わないで、作業と呼んで間違いないでしょう。これが一つ目。
もう一つはリゾームをすっ飛ばして宗教・形而上学の信仰に直に行くことです。この典型がオウム真理教のような人々かなと思います。一見まともに見えるのに、考えていることが対話できずにぶっ飛んでる状態(仲間内では可能なのかな)。頭のいい学のある人ならすぐにおかしいとわかるはずだという観念もあてにならなかった。土谷正実という人はオウム真理教幹部。筑波大学大学院化学研究科修了、有機物理化学を専攻の化学者と呼べるような人で、サリンやVXガスを作っていた中心人物です。また、村井秀夫という人もオウム真理教最高幹部。大阪大学理学部物理学科入学、同大学院修士課程を卒業。麻原教祖に「君の優れた研究能力を、人々を救済するために役立ててみないか」と言われたことが自分がオウムに移る大義名分を与えたと回顧しているようですが、頭の狂っている人のようには見えない。
もっとスケールを大きくすれば、ナチスドイツがそうであったといえるかもしれません。生きている価値のある人間と生きている価値のない人間に振り分けることにより、自分が生きている価値のある人間の側であるならば、それだけで空白をある程度埋めることができる。そして、生きている価値のない人間である障害者やユダヤ人が600万人、ガス室送りになった。ナチスドイツの熱狂的な支持は、失業対策や福祉事業の成功等もあるでしょうが、思想的には手っ取り早く空白を埋めることができる民族主義的思想でもあったといえるのではないでしょうか。
ハイデガーの存在論も現存在が存在者を意味連関として把握する上で、共同体の生起がおのずと現れてくるみたいに言うところがあり、民族的共同体が存在論の上でも無視できるものではなかったのでしょう。そのためかわかりませんが、ハイデガーもナチスに入党しています。オウム真理教でいえば、土谷正実や村井秀夫みたいな位置といっていいかもしれません。
ただ、オウム真理教の場合、ナチスのような民族主義的思想のようなものではなく、おかしな輪廻思想であった。森達也さんの『A』『A2』というオウム真理教を取材したドキュメンタリー映画がありますが、当初本当に興味深く見ていました。特に信者の人の会話に。
ある信者が「今の現世の修行は次の次の次の次の次の次の自分のためになっている」なんてことを頭に電極を巻きながら真面目な顔して話しています。また、信者の同級生である会社員の人との会話があるんですが、話がかみ合ってない(笑)。彼らがサリン事件の後、さらに軍用ヘリからサリンをばら撒く計画をしていたのは有名な話ですが、真面目に「人類救済」活動と考えていたということには、信じられないと思えるでしょう。
「ちょっとあんたおかしいよ!」っていいたいかもしれませんが、正直彼らを説得する技術をあなたは持っていますか?信者から「なんで?」って言われたらどう答えることができるのか。私たちはその点に何も訓練されていないといっていいと思います。リベラル・アーツによりその空白を独自に埋めていく過程もなく、空白のまま放出される。日本人の集団意識がそれを必要としなかったときがあったのかもしれませんが・・・。
最近、パチンコ店を放火した男性が、「リストラされて仕事がなく社会から疎外された」といっていたようですが、もし存在意義・生きている意味が空白であるならば、個人主義なんて名目上のもの以外何ものでもない。代わって社会から与えられたものが価値になるほかない。だから、「リストラされて仕事がない=お前は必要ない」が自分の価値だと思うことになってしまう。でも最後の最後やっとのこと自分の口から「生きたい」という意見を見つけるが・・・、どうすればいいのかという大きな壁が立ちはだかる。
こういった意味で宗教の役割は本来は大きいはずなんでしょうが、日本では仏教以外は直感的な愛の信仰を中心としたものではないかと思います。ヘーゲルが一時期、愛による運命との融和を考えますが、現実との対立を止揚できないことから断念します。現在のオカルト系の宗教はそんなことおかまいなしです(笑)。人々の「かわいそう」とか、「助けてあげたい」、「平和」という感情はとってもお金になる。
いつか、カルデロン一家が強制退去ということでテレビを賑わしたそうですが、視聴率がうんと良かったそうです。だからなんどもなんども流された。しかし、愛の信仰には隠れた破壊が行われる側面がある。その点のリスクを考えて行動するには、もう信仰ではうまくいかないでしょう。
主体性の話に戻ると、以上の観察からいうと、現代というのは主体も不安定で主体性というポテンシャルが生きることもほぼない社会かもしれません。企業はこの点から一切、手を引いており、改善といえばコスト削減の意味でしかないんじゃないでしょうか。空白のまま採用し、空白のまま使い、空白のまま放り出す。株主はまだハワイでバカンス中でしょうか(笑。
オウム真理教とナチスドイツのお話をしましたが、小さな団体から、国家的規模になる可能性がチラッと見て取れる気がしますね。でも、日本では毎年3万人の有権者が物申すこともなく自殺して死んでいってくれているので、政治的な盛り上がりもないんだろうと思います。だから、いまあるやり方も対して批判があるわけじゃないから良い方法だということで、このまま続いていくんでしょうね。
いやいや私はこんな悲観的な結論は大嫌いでして、要点は、人間の主体性というポテンシャルを使っていないのでは、世界規模の競争に遅れを取るだろうし、アダム・スミスのピン作りの時代じゃないわけですから、分業も改善という名のコスト削減も、統計値だけで決定していく考え方を変えていく必要があるんじゃないかっていうことです。つまり、全体的にみて効率が悪くなっているのではないかと。
しかし、私がいっている空白という意味のことも虚しく、ドラゴンクエスト9が300万本売れたとかで、テレビを見るとクイズ番組とお笑い芸人のオンパレードでもあって・・・・。結局、最後まで変なことを書いてしまったという反省の気持ちと共に終わりにしたいと思います。
長文ですみませんでした。
2009.07.06 | つぶやき | Comment:0 | TrackBack:0
タイトル:パワフルでタフな人たち
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奇想天外なことをする人がたまにいます。
ただ、そういったもののほとんどがよく意味がわからないことが多い。しがらみのない異世界を憧憬させるパフォーマンスをする芸人や芸術家と呼ばれる人がそうかもしれない。しかし、そこにはやはり何か「美」というものの追求が隠れているものではないだろうか。
ファッションはとりあえず置いておきます、クリストファー・ラッシュのいうような「ナルシシズム」消費から生まれた何だか悲しいもののように思えるので。
しかし、現代たいへん騒がしい「お笑い芸人」はいったいどこにカテゴライズされるものなのでしょうか。芸術家なのでしょうか。そのへんのところは詳しくないので誰か教えてください。ただ、「お笑い芸人」を馬鹿にしているわけではありません。「笑い」について、哲学的に考えた哲学者もいるぐらい、そう単純なものではないようですし、医学的にも何か効果があるらしいということもあるようですから。
しかしながら、そこでは一体何を追及しているのでしょう。「刹那的な笑い」(ストレス解消・いやなことを一瞬忘れることができる的な笑い)だけなのでしょうか。ギャクをパクるとかで、人とのコミュニケーションとの参考になるのかな?上下関係の意識とか?また迎合、付和雷同の仕方等もそこで参考になるのかもしれない。ですが、そんなことを解説しようとする芸人は一切いませんね。その場を盛り上げるだけにいるだけの存在?楽しいことは誰もが好きという価値を張りやすい分、安上がりで視聴率が良くなるんでしょうか。
もともと、大阪の方の文化らしいので、その根底にあったものを知らなければ批判などできないでしょうが、正直そのへんが汲み取れない。
この点、前回の話とちょっと重なるところがあるように思います。人を笑わすという意味が、日本とちょっと意味が違いますが、海外で面白い活動をしている人たちがいます。彼らがどうしてこうもパワフルでタフに見えるのか、その根底にあるものは何なのか。メディアの一つの装置としての「お笑い芸人」とは違った何かがあるように思います。
おもしろ半分・考えるところ半分なドキュメンタリー映画なんですが、邦訳を見つけましたので、どうぞ。
↓ユーチューブの動画です。↓
動画:THE YESMEN
↑ユーチューブの動画です。↑
2009.06.20 | つぶやき | Comment:2 | TrackBack:0
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